天気の話

ヲタクの世間話的な何か

ジオウの夏映画見てきました:ウォズ!!!

夏映画を見ました。いまいち正気に戻れていません。
※以下、ネタバレ回避などまったく考慮していない書き殴りですのでよろしくお願いします。

私はやっぱりどうしようもなく思春期に少年漫画を浴びて育っていて。ソウゴ君のようなある種暴力的に強い「主人公」が好きです。強い輝きが好き。そうして物語として、彼のような強さが必然的に何かを踏みにじるということをちゃんと示すものが好き。更にそれに向き合わされて傷ついてもそれでも自分の芯を握りしめて離せないキャラクターが大好きです。諦めの悪い奴が好き。

でもってウォズのような、自分を「賢い」「ドライだ」と誤認している風な、そのせいで肝心なところで情に足を取られる愚か者が好きで、ああいう「主従」が好きです。不均衡なのに均衡が取れている関係性。なんていうか、自分で主を選ぶ従属モンスターというものが好きなんですね。

だからテレビでも映画でもその2人にどうしても意識が偏ります。それ以外のことも考えはするけど、こっち先に吐き出さないと他にいけない。駄目だこりゃー。
(同じくらいじわっと心にひっかかってついつい考えてしまうのは飛流君のことなんですが、とっちらかるんでこれは別で書こう)

https://twitter.com/kumorimo/status/1155039205497507841?s=20

「愛 に できること は まだ あるかい」

あるよ。あったよ。ソウゴ君とウォズが示してしまった。
殉教に至るような敬愛と強い意志は、甘ったるくて薄っぺらくてどこまでも優しい日々で育まれてしまうんだと。
愛も感動も語られ尽くしてアーカイブされまくる情報過多の現代でも、物語が物語られることは必要で、それがないと生きてる甲斐がわからないみたいな奴らもいて。そいつらは馬鹿と悪ふざけをミキサーにぶちこんだみたいな世界でウォズが高らかにソウゴの帰還を祝う時、あの最高に一発ネタとして優秀な祝う仕草を見ながら、馬鹿みたいに泣いてしまう。
マジで主従好きなオタク全員この歌の歌詞を読んで泣けばいいと思う。

ていうか1つ前のブログ記事の後半で関係性萌えオタクの限界ローリングを映画公開前に書きなぐっておいたら、だいたいほぼほぼそのまんまをお出しいただいてあっしぬ…許して今ちょっとどんな顔したらいいのか平成ライダーキックが頭に入ってこないんだけどそれ笑うとこ?笑うところですね??情緒バカになっててどうしたらいいかわかんねえなって困惑してたらそのまま映画終わった感じだった。

ウォズが真の裏切り者になる瞬間に、ソウゴ君はその場にいないから、あれはソウゴ君に許してもらうためでももう一度信じてもらうためでもなく、ただただウォズが自分自身を、自分に根を張った情だの愛だのを裏切れなくて選んだ答えなんだな。
プロメテウスが火を人に与えてしまったように、ウォズは超越存在をやめて「人間」のところへ降りていった。そうさせたのはソウゴ君だし彼の周りにいたゲイツ君やツクヨミ君やおじさんなのだ。

メタ目線での話をしますけれど、一次創作だけでなく二次創作ですら、ちょっと長い話を書いた経験がある人は多くが口を揃えて「キャラが勝手に動きだす」って言いますよね。あれマジで、最初に起承転結くらいのざっくりした全体の枠を立ててキャラを配置したはずが、具体的なセリフや動きをいざ当ててストーリーを転がし始めると、いやこれ頑張ってもこっちにはいかねえな?ってどんどん脱線して違うゴールに向かうみたいなのある。
脚本家がそうしたとか、役者さんがそう作ったとか、そういう1つ2つの要因でシンプルに因果関係を説明できない「流れ」でキャラがそうなるっていうの、確かにあると思うんですね。
それってある意味で「キャラそのものの選択」って言えません?
ゲイツもウォズも、いざソウゴ君と出会わせて会話して動いていったら、なんかこれギスギスした敵同士にしても「面白くない」な、「無い」なって、無理ある流れだなって判断された結果が、最初の構想からズレたトンチキトリニティなんだなって私は認識していて、それめちゃくちゃにエモーショナルじゃないですか。

1年おっかけてきた大人が映画のエンドロールで泣きそうになるのってそういうことなんだと思う。
能動的に今回の夏映画を見に行く大人の多くは、1年かけてソウゴ君を好きになって、クジゴジ堂でわちゃわちゃやっている4人を愛してしまって、メタ側にいたウォズ、お前もきっとそうなんだろ、愛してたよな、あの場所やそこにいる王様志望の青年のことを好きになってしまったんだよな知ってたよ、馬鹿だなあ馬鹿だよなあ、あれは虚構の、画面の向こうにある世界なのに。

「こういうのだと萌えるんだけど泣くな!」っていう方向性としてはあとこのへんなんですけど、士さんの『だいたいわかった』くらいのガバさでただし本当にそっち行ったから限界オタクは無理です。

願うことから始めて、って。

ソウゴ君はバトルでの戦闘力も主人公らしくサイキョウなわけですが、映画で勝負の決定打になったのはソフトパワーというか、これまでのテレビでのストーリーが積み重ねた関係性の重さだったところもエモーショナルだなと思います。
ゲイツ君がボロボロになりながらウォッチを取り返してくれて、ウォズが降臨暦を破りゲートの均衡を壊してくれて。テレビで士先輩が発破かけた通り、ソウゴ君が願いを捨てずに叫んだなら、きっと両肩のライダーは応えてくれる。

ちなみにウォズが本を破り捨てたシーンには驚かなかった方です。むしろ気持ちとしては「やっとかよォ!」でした。正直ずっと、もうそれ鬱陶しいから捨てろや思ってた。何か困る度にすがるみたいに本見るんだもん。違ぇだろ目の前のソウゴを見ろ、ゲイツを見ろよって思ってた。向き合え、お前が探そうとしてる答えはそこにない。

そういえば映画の最後のあれ、ゲイツ君とツクヨミちゃんが謎空間に入れた瞬間は、正直ぞわっとしました。ウォズが「人間」になった話と見せかけて、むしろ他の2人の方がウォズ側の「人ならざるもの」として戻ってきた話だった?って。
他の方の考察で、ソウゴ君の無意識の巻き戻しがウォズにも作用したとか、クォーツァーの皆さんの餞別では等があって、そういうのの方が平和で良いです。

一方でこれは割と、私の気持ちとしては「前向きな」解釈なんですが、最後のウォズは、斃れたウォズとは別のウォズなのかなって漠然と思いました。別って言いつつ、ウォズはウォズなんですけども。
彼はほらメタ側のキャラクターだから、映画の枠組みの中では斃れたけれども、それでもどこからか次元を超えて彼の王様のところへいつも戻ってくるんじゃないかなって。
ヘルシング(漫画のね)を思いだしました。数多の可能性の濁流を超えて、彼は彼の得た主の元へ戻ってくるのだ。泣くわー無理無理。オタク、クソデカ感情が好き。

最後にMOROHAの曲をYoutubeで聞いちゃった時の深夜ローリング貼っておきます。このあたりから、なんでクール系ですみたいな顔してんだろあの3号ライダー、いちばん情が重いのお前ちゃうんかってずっと思ってた。

https://twitter.com/kumorimo/status/1131623537993584641?s=20

ソウゴ君はずっと目をそらさずにウォズのそういう中心を見ようとしてた。ゲイツのことも、ツクヨミのことも、同じように。
我らの魔王は格好良いな。ウォズもそう思うんでしょう?